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青春18きっぷの旅2005夏
大崎下島→三原
[広島県呉市→三原市]
Ōsakishimojima island→Mihara
2005年8月3日
<蒲刈・豊島 明石~名古屋>

豊島で下船し、親戚の家の墓の手入れを手伝った後、車で豊浜大橋を渡り大崎下島へ。

(大崎下島には2013年に再訪しております。その際の記録はこちら。)

大崎下島の御手洗地区にある、昭和30年代の暮らしを再現した家。
ボンカレーやオロナミンCの琺瑯看板が展示されている。
現在地(御手洗地区)はこちら↓

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畳の上には駄菓子や氷かき機などが展示されている。
御手洗地区の地図。
左下の「御手洗の歴史」には、
文化3年(1806年)3月に伊能忠敬が御手洗の測量を行ったとある。
奥に見えるのは、文政11年~12年(1828年~1829年)に築造された千砂子波止(ちさごはと)。
ただし、灯籠は平成になってから造られたもの。
御手洗地区から撮影した岡村島。
御手洗地区を見て回る前に車で岡村島の旧関前村役場付近まで行っており、
この時「四国初上陸」(四国本土に足を踏み入れていないが、
愛媛県にはこれで初上陸)を果たしている。
奥に見える島は平羅島(へらしま)。右に架かる橋は中の瀬戸大橋。
小島(こじま)。
この島のさらに向こうには中ノ島(なかのしま)があるが、
御手洗地区からは見えなかった。
左の「中の瀬戸大橋」は平羅島と中ノ島の間、
右の「岡村大橋」は中ノ島と岡村島との間にそれぞれ架かっている。
小島と岡村島。岡村島の向こう、岡村大橋越しには大崎上島がかすかに見える。
岡村島。
山の上のほうに見える細い逆y字の筋は、
収穫した蜜柑を下の道まで運ぶ無人運搬車「モノラック」のレールが設置されている所。
真言宗古儀派に属する南潮山満舟寺。
観音堂に掲げられている額の「満舟寺」という字は、
文化4年(1807年)に17代琉球国王の襲封謝恩使に同行していた
中山の楽師・梁光地が揮毫したもの。
車で大長港まで送ってもらい、ここで親戚のおばさん(といっても祖母と大して変わらない年頃だが)と、「豊島大橋が完成したらまた来ます」と言って別れた。
すでに橋は完成したが、未だ再会の機には恵まれず。まだ元気でいるだろうか。
大長港にあった、大長みかんの乗っかった電話ボックス。
島民の待ち合わせ場所にも使われているのだろうか。
現在地(大長港)はこちら↓

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三原行きの高速船から見た「広島ゆたか農協」の選果場。
乗船前にも前を通ったが、蜜柑の収穫時期でなかったので、人影は見られなかった。
大崎下島と平羅島との間に架かる平羅橋。
中の瀬戸大橋。右側の島が中ノ島。
竜宮城を模したという奇抜な外観が目を引く大崎上島町の公民館「かもめ館」。
塔の上から伸びる通路の先には金剛寺がある。
大崎上島のすぐそばにある佐組島(さぐみじま)。
1971年からは無人島となっている。
佐組島と大久野島のほぼ中間にある松島(の左半分)。
松島の右半分。右奥にはかすかに阿波島(あばしま)が見える。
大久野島(おおくのしま)南部にある灯台と海水浴場。
大久野島南東部。
屋根だけ見えるところはキャンプ場。その上は砲台跡。
呉線安芸幸崎駅より少し東に行った久和喜の沖にある有龍島(うりゅうじま)。
島近辺は天然記念物「ナメクジウオ」の生息地となっている。
三原港に到着し、高速船を下りるとそのまま三原駅へ向かった。
三原城趾に造られた「隆景広場」。奥に見えるのは三原城の天守台石垣。
三原駅は三原城趾を貫く形で作られた。
戦国時代に三原城主を務め、
後に豊臣秀吉の五大老(五奉行とも)の一人となった小早川隆景の石像。
別の位置から見た三原城の天守台石垣。

三原からは新幹線を使わず、山陽本線の普通列車をひたすら東へ乗り継いでいった。

<蒲刈・豊島 青春18きっぷの旅
2005夏
おまけ>
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