青春18きっぷの旅2011夏
(その1)
新大阪→大垣→東海道本線
2011年8月17日

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2011年8月17日水曜日

この日は新大阪駅から新快速米原方面長浜行きに乗車したが、
能登川駅での人身事故の影響で新大阪到着・発車が6分遅れた。
米原到着時点でも5分ほど遅れていたが、新快速名古屋方面豊橋行きの乗り換えはなんとか出来た。
新快速名古屋方面豊橋行きは他方面からの接続を待ったため2分遅れで米原駅を発車したが、
垂井駅での通過待ち時間が削られたため、大垣駅には定刻で到着。

この旅のもう一つの目的地、そしてこの日の目的地である大垣は
春の18きっぷの旅で訪問を計画していながら2日前の地震による影響でキャンセルしたところである。

大垣駅前には
ヨ8000形車掌車が2両静態保存されている。
(右側がヨ8633、左側がヨ18085)
大垣駅ビル「アピオ」。
水門川に架かる平和橋。
水門川。
安八郡輪之内町で牧田川に、
養老郡養老町で揖斐川に合流し伊勢湾へ注ぐ。
こんにゃく屋の文七が天明二年に人工の湧水井戸を掘ったことで
掘抜井戸発祥の地とされている場所。

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水門川に沿って南下。
稲荷神社の裏にある栗屋公園は、「水都」大垣らしい
自噴井のある憩いの広場として整備されている。
大垣城東総門(名古屋口門)跡。
石柱のみで遺構は全くない。
左奥には稲荷神社の鳥居が見える。

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商店街をさらに南下し、廣嶺神社へ。
入口には「おほてはし」と刻まれた古めかしい石柱が建っている。

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ここは大垣城の大手門跡で、
現在の廣嶺神社境内は大手門の枡形跡にあたる。
現地の説明板には「東側の石垣は往時のまま」とあるが、
そのように見えなかったのは自分だけだろうか。
「史跡 大手門跡」と刻まれた石碑と神馬の銅像。
現地の説明板に「かつての内堀である」と記されていた
神社東側の水路。
大手門跡の近くには
「美濃路 大垣宿脇本陣跡」の石柱も建つ。

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金物屋の軒先には
「右 京道」「左 江戸道」「文政九年丙戌十月建之」
と刻まれた道標が建っていた。
傍らの説明板によると、
美濃路と竹鼻街道の分岐点に建っていたものだそうだが、
今建っている場所付近がその分岐点だったのかは不明。
大垣宿問屋場跡。
大垣市竹島会館。
かつて美濃路大垣宿の本陣飯沼邸があり、明治11年には
東海・北陸巡幸の帰途にあった明治天皇が行在所として
利用されたため、昭和33年に史跡に指定された。
竹島会館前から旧美濃路(東方向)を見る。
大垣城西総門(京口門)跡。
牛屋川を渡った先には・・・

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「右 京みち」「左 江戸道」と梵字が刻まれている
大垣市指定重要有形民俗文化財の「船町道標」がある。
水門川(↓)と牛屋川(←)の合流点。
再び水門川に沿って南下すると、
大垣市指定史跡の船町港跡に到着。
港の標識として建てられた「住吉燈台」(左画像)は
岐阜県の史跡に指定されている。
船町港は水門川の河港として
明治時代まで利用されていた。
船町港には航海の神を祀る住吉神社が併設されている。
岐阜県道18号の一部となっている高橋の上から
船町港跡を見る。
水門川右岸には
「史蹟 奥の細道むすびの地」と刻まれた石柱がある。
石柱から道を挟んだ反対側には「奥の細道むすびの地記念館」が
2012年4月8日の開館にむけて建設中だった。
「奥の細道むすびの地」には
松尾芭蕉と、芭蕉の俳友で大垣に住んでいた
谷木因の像が建てられている。
北へ戻り、大垣市役所そばに来ると
「大垣城柳口門跡」と書かれた案内板が。
そこにはそれ以上のものはなかったが、
案内板によると柳口門そのものは
東門として移築されているとのこと。
大垣消防組合の分駐所には、揖斐川の水位と
過去の大水害時の水位を示した標識が設置されていた。
現地の標高が7mなのに対し、明治29年9月の洪水時の水位は
警戒水位(9m)に迫る8.83m、昭和51年9月12日の災害時の
最高水位は11.85mと記録されている。
大垣城本丸西側に到達。
南側に回る。
右側に見えるのは、大垣出身の治水家で、
明治29年の洪水で大垣の輪中が水に浸かった際に
独断で揖斐川の堤防を壊させて水を揖斐川に流し、
大垣を救ったといわれる金森吉次郎の銅像。
鉄門跡。奥には七間多門跡がある。
辰巳櫓跡の石垣。
辰巳櫓跡のそばには東埋門跡がある。
辰巳櫓跡。
大垣城再建天守。
大垣城天守は旧国宝に指定されていたが
第二次世界大戦中の昭和20年7月に焼失し、
昭和34年に再建された。
本丸東側の、本来は大小姓多門があったところに
柳口門を移設して「東門」としている。
東門前から再建天守を見る。
明治29年9月の洪水の際、
大垣城の本丸石垣も一部水に浸かった。
石垣の北西隅にはそれを後世忘れないように
「明治二十九年大洪水點」の文字と
水が達したところにラインが刻まれている。
石垣の「明治二十九年大洪水點」と刻まれている部分。
再建戌亥櫓。
水之手門跡。
水之手門跡から大垣城本丸北側の塀を見る。
"2代目"おあむの松。
関ヶ原の戦いの際に西堀端の松から
堀に浮かぶたらい舟に乗って城を脱出した
おあむの逸話に因んで、その松は
「おあむの松」という愛称がついた。
その後"初代"は昭和10年代に枯れてしまったが、
植え継いだものを2代目としているらしい。
本丸西側から再建天守を見る。
西門は往時からの現存や他の門の移築等ではなく、
後付けで造ったらしい。
再建丑寅櫓。
東門を外側から撮影しようとしたら
激しいにわか雨に襲われた。
傘を差しながら東門と丑寅櫓を撮影したが、
その後雨が止むまで3分ほど東門で雨宿りした。
雨が上がった後、東側から大垣城本丸北側の塀を撮影。
本丸の外(西側)に鎮座する、
大垣藩主戸田氏初代・戸田左門氏鉄の騎馬像。
西門と再建天守。
大垣市郷土館。
大垣藩主戸田氏に関する資料や
大垣にゆかりのある芸術家による美術品、
大垣の歴史に関する展示などがある。
大垣城本丸の西にある空き地から
再建天守・戌亥櫓と戸田氏鉄騎馬像を撮影。
大垣城本丸の北西にある常葉神社。
戸田氏鉄の父である戸田一西の没後250年にあたる嘉永5年に
一西を祭神として当初は城内松の丸に建てられたが、
明治6年に大垣八幡神社境内に移設、
明治24年の濃尾地震で被災した後、
明治35年に現在地(竹の丸跡)に再建された。
現在は一西だけでなく、
戸田氏11代の歴代藩主も祀られている。
←戌亥櫓(西側から)|丑寅櫓(北側から)→
最後に雨が降っていない状態での東門・丑寅櫓を撮影し、
大垣城を後にした。

途中、お土産の水まんじゅうを買って、大垣駅に戻ってきたのは15時30分。
16時1分発の新快速豊橋行きに乗ればいいので、少し早めに着いたと思ったが、大垣からの乗り継ぎ予定を確認すると、それは大きな勘違いだった。
16時1分は(当初途中下車する可能性があった)名古屋発の時間で、始発駅の大垣は15時26分に発車していた。
仕方なく、次に出る15時41分発の新快速豊橋行きに乗ることにして、携帯電話で乗り継ぎ検索をしたところ、
今度は事前に乗り継ぎ予定を組む段階で見落としがあったことが発覚。
先行している岐阜始発の普通浜松行きに乗り換えれば、予定していた乗り継ぎの1つに繋がるようなので、それに賭けることにした。
新快速豊橋行きは当初は定刻通りで豊橋に向かっていたが、岡崎発車後に減速。
詳細な理由は不明だが先行列車の遅れということで、蒲郡には3分ほど遅れて到着。
島式ホームの反対側には普通浜松行きが停車していたが、席を確保できそうもなかったのでそのまま豊橋まで新快速に乗り続けた。
豊橋で普通浜松行きに乗り換え。浜松行き列車は終始遅れを引きずったままだった。
浜松では島式ホームの反対側・2番線に停車していた掛川行き列車ではなく、隣のホームの3番線で熱海行き列車に乗り継ぎ。
このまま熱海まで乗っていっても帰れるのだが、静岡で下車し、19時30分発の東京行き338M列車(373系9両編成)に乗り換えた。
当初予定していた静岡での夕食調達ができなかったものの、目的の338Mに乗車して帰京することができた。


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